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ジョハネスバーグは1600mmほどの高地にある。
軽井沢の倍ぐらいの標高だ。だから一年中心地よい。冬だって昼間は半袖の日が多い。 そして内陸故、ヨットに乗るなどと言うことは、昔乗っていたヨットに乗ろう等とは当然念頭に無かった。 なので、海辺の街に行くとついついハーバーを探してしまう。 ヨット、それは一言では語れない。ちょっと週末に行ってちょっとクルージングを楽しむ。 それは極断面、いやいやほとんど現実からはかけ離れている。 ヨットをやると言うこと、それはほとんどの時間をすべて海に費やすと言うこと。 街を捨て、友を捨て、場合に寄っては家族を捨てすべてヨットに費やすと言うことだ。 海辺の街に行くとついついハーバーを探してしまう。しかし、そこは「ボートのハーバーだった。 #
by sa55t
| 2009-05-25 05:17
| 南ア
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by sa55t
| 2009-05-24 03:05
| 南ア
いわゆる電車の無いこの国の交通機関は車。
そして街のコンビニはゼロで、しかしガソリンスタンドには売店がある。 だがちょっとしたものはほとんど交差点に立つ売り子が販売している。 誰も買わないし、止まらないが、ハンガーやパパイヤやサングラスやサッカーチームの旗などを売っている。 こんなんじゃ商売になりそうにない中でコンスタントに売れるのが新聞。 逆に交差点で買うのが大変一般的。いつも立っているレニーもその一人。 6時から9時まで販売している。みんな買ってくれるから結構忙しい。 42才だ。子供が二人いる。 うん、何とか食べていける。 彼はまるで小鳥のさえずりのような不思議な口笛を吹きながら毎日新聞を売っている。 #
by sa55t
| 2009-05-23 04:59
| ポートレート
フランスは敬虔なキリスト教徒。仕事以外は教会にその全てを捧げている。
水曜日は19-21時 金曜日は21時-翌朝の4時 土曜日は12時-16時 日曜日も12時-16時 彼は毎週毎週この時間に教会に行って踊り歌い祈るのだそうだ。 ほとんど自由な時間はないという。 教会に行くのは楽しい。心が自由になる。そして人間は祈らなければならない。 自分の時間?それは教会に行くことだ。 うん、どんなことでもする、教会の為なら、なんでもする。「どんなことでも!」 彼はきっぱりと言い切った。 ある意味「敬虔さ」が「狂信的」に置き換わっている。 イスラミックな連中に、また教会を汚すあらゆる者に対し、爆弾背負って突っ込む事を厭わないという。 ZCCと刻まれた 片時もはずさない、胸の星バッジが光った。 #
by sa55t
| 2009-05-22 00:44
| ポートレート
面白い記事を見つけた。
萬晩報主宰 伴 武澄さんが65年頃当時の南ア体験談を綴られている。 ここで驚くのは、今と44年前とでは状況があまり変わってはいないと言うこと。 人種差別は無くなり、黒人達の中にもポルシェやジャガーを乗り回す連中が出てきて、表面は変わりつつある。 しかし、この国の底流に流れる物はどうだろう。あまり変わっていない気がする。 ここに出て来る44年前の日本人の生活と今のここに住む我々の生活にそんなに差はない。奥様方の感情もこんなに近似であるとは本当に驚きである。50年やそこいらでは、日本人は変わりようがないのか? 本来ならば、ここの国にいて、伴さんのように深く掘り下げて、物事を書かねばいけないのだろうが、当時と事情が違う一番のところは街を歩けなくなったこと。車から出ることが出来なくなったこと。当然車の中では情報が限られてしまうことだ。 ======================================== 萬晩報主宰 伴 武澄 南アフリカには1965年の春からちょうど2年間滞在した。家はプレトリアの高級住宅街にあった。前庭は芝生が生えていて子どものサッカーが十分にできるほどの広さがあった。1000坪はあったと思う。 道路から出入り口が二つあって二階建ての家の後ろに乗用車が6、7台はゆうにとめられる駐車場があった。そのさらに向こうに果樹が何本か植えられている大きな裏庭があった。それまで日本では2Kの狭い公務員住宅に住んでいたから、そこは邸宅と呼んでいい住居だった。 家にはユリさんという40歳前の背の高いやせた女性のお手伝いさんが住み込みで働いていた。彼女のすみかは母屋から2、30メートル離れたところにあった。サーバント・クォーターといってどの家にも使用人の離れがあった。電気は裸電灯があるだけまし。便器は水洗だが、座るふたがなかったし、シャワーにお湯はなかった。“使用人”とはいえ母屋とはあまりにも違う住環境だった。 日本にもかつては女中や下男を置く家もあったが、少なくとも住むところは同じ屋根の下だった。だからサーバント・クォーターはまさに異なる人の住むところという印象があった。 ユリさんの賃金は食事付きでたぶん月5000円程度だったように思う。まずは白人の数十分の1以下である。主食はミリミールというトウモロコシの粉を炊いたもので、見かけはマッシュポテトのようなものだった。副食には必ず肉があったから栄養的にいえばそう貧しくはなかったが、生活レベルは雲泥の差である。 筆者が住んでいたプレトリアは南アの首都で、日本人は総領事館の5家族しかいなかった。子どもは筆者の兄弟3人とあと1人の小学生だけだったが、70キロほど離れた商都のヨハネスブルグには日本人が500人ほどいて日本人学校もあった。 狭い日本人社会ではよく行き来があった。日本人同士のパーティーもしょっちゅうあった。そうした集まりで必ずといっていいほど話題になるのが黒人メイドのことだった。「不潔」「低能」などといって罵倒するのはいいほうだった。一番いやしいと思ったのは奥さま方が黒人メイドの「盗み」にどう対応しているか喜々として話している場面だった。 ほとんどの家庭が日本では考えられないほどの王侯貴族の生活を満喫しているのに、メイドたちが「砂糖を盗む」「しょうゆがいつの間にか減っている」といったけちけちした話にうつつを抜かしていた。美しく着飾った日本の奥さまたちが砂糖を盗んだといってメイドを面罵する場面を想像するだけで恥ずかしかった。 町に出れば自分たちも差別される身でありながら、南アのアパルトヘイト政策を批判する場面に遭遇することはまずなかった。 そりゃそうかもしれない。当時の日本では想像も出来ないプールとテニスコート付きに邸宅に住み、何人もの使用人にかしずかれる。アパルトヘイトさえなかったらおよそ天国といっていい。多くの日本人はその生活レベルに舞い上がっていたに違いない。しかし筆者にはそのアパルトヘイトが許せず、現実を直視せずにアパルトヘイト政策を支持するような日本人こそが醜い存在だった。 同じような日本人社会は南アが特別ではなかったはずだ。タイでもインドネシアでもあったはずだ。戦争に敗れて20年しかたっていない日本人はようやく豊かさの入口に立っていたが、まだ貧しかった同じ有色人種の仲間たちを白人以上にぞんざいに扱っていたのだ。 ======================================== 伴さんは面白い視点で南アを分析しておられる。 興味のある方は以下をどうぞ。 アイ・アム・ノット・チャイニーズ お前たちの来るところではない ヘイ・チャイナ・チャイナ 南アフリカでインドに目覚めたガンジー ローデシアの一方的独立 黒人の家の中を覗いてみよう。ここは少しハイクラスの黒人の家、ずいぶんと広い。 パラフィン使用のコンロ その横は照明用のろうそく。 炊事設備はこれだけ。隣に見えるロッカー?にすべての持ち物が入っている。 国民の大半を占める黒人はこういう黒人居住区に住んでいる(タウンシップという)建築材料など無く、拾ってきた廃材を紐で縛って出来上がりと言う家が大半。他国に比べれば、この国の家は屋根や壁が有るだけまし。4本の柱にゴミ袋のビニールをかぶせただけのような家が多い国の連中から見れば、ここは天国に見えるだろう。だからか、不法移民は後を絶たない。 #
by sa55t
| 2009-05-21 05:58
| 南ア
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